部活に22年間の情熱を注いだ高校教員が、47歳で「自分の城」を持つまで

としさん(滋賀県・47歳・高校英語教員22年・R7年度末退職・職歴:民間企業1年→高校英語教員22年(2校)今後は学習塾開業・コーチ業・スキーインストラクターなど複数の軸で新たなキャリアへ)

滋賀県の公立高校で英語を22年間教えてきた としさん(47歳)。海外留学・商社勤務を経て教壇に立ち、ソフトテニス部の指導にすべての情熱を注いできた。全国大会には18回出場。しかし、全国ベスト8の夢を阻まれ続けた先に、ひとつの転換点が訪れた。部活への情熱が変わっていくとき、65歳まで続けていける未来が描けなくなっていくとき。「自分のことをもっと知らないといけない」と感じてSSに出会い、そして今、自分の塾という「城」を建てようとしている。

留学・商社・採用難時代——教員になるまでの道

新川: 
教員を目指したきっかけから教えてもらえますか?

とし: 
小学校のころから学校という場所が好きで、小学校なら小学校の先生、中学校なら中学校の先生にいつも憧れていました。高校を出るころには高校の英語の先生になりたいと思っていて。ただ教育学部には行かずに英文学部を選んだのは、教育だけに絞ると視野が狭くなりそうだと感じたからです。大学では4回生の時に1年間休学して留学も経験しました。

新川: 
卒業後はすぐ教員に?

とし: 
いきなり教員になるのは早いかなと思って、まず商社に就職しました。でも1年弱で辞めることになって。当時は就職氷河期で何十社も受けてやっと入れた会社でしたが、ずっとここでやっていくイメージが持てなかった。次に教員を目指すにしても採用試験の倍率がすごく高い時代だったので、早く動いた方がいいとパッと決断して滋賀に帰り、京都の専門学校に3ヶ月通って、運よく初回で合格できました。

新川: 
社会に出た経験が教員生活に生きることもありましたか?

とし: 
それは意識していました。いきなり教員になるより、社会の経験が生きるはずだと思って動いたので。実際に生徒に話すとき、社会の話ができるのは大きかったと思います。

「いきなり教員になるより、社会に出た経験を積んでから。その選択が、22年間の教員生活を豊かにしてくれました」

ソフトテニス部に22年間の情熱を注いだ日々

新川: 
22年間で、この仕事をやっていてよかったと感じた瞬間はどんな時でしたか?

とし: 
一番の理由はクラブ活動がやりたかったことで、英語を教えたいというよりも部活をやりたくて教員になったくらいです。中学から大学までずっとソフトテニスをやってきて、インターハイにも行ったけどもっと先まで行きたかった思いが自分の中にあって。それを生徒と一緒に目指せる場が教員だと思っていました。

新川: 
実際、どれほどの時間を部活に注いでいたんですか?

とし: 
平日は夜7時半まで練習して、そこからコート整備してダウンして、次の日の予習をしたら帰宅は10時前。土日は県外遠征で5時出発、帰りは夜9時ごろ。泊まり遠征もある。それを19年間続けていました。一生懸命になればなるほど、生徒との間に軋轢も生じてしんどくもなる。でも、試合での生徒のあの真剣な表情を見たら、それまでの苦労は全て消えてしまう。感動というその感覚にハマってしまうんですよね。インターハイにも全国選抜にも出て、全国ベスト8を目指してやってきました。

「自分の思いに反して生徒との軋轢が生じるとしんどくもなる。でも試合での生徒の真剣な表情に、毎回感動する。その感覚にはまってしまうんです」

19年目の転換点と、65歳までの問い

— 新川: 
部活への向き合い方が変わったのはいつ頃でしたか?

— とし: 
19年目ごろに、このチームをインターハイに連れていけなかったら自分の力不足だと思っていた試合で、負けて準優勝だった時です。インターハイも全国も全部出てきたのに、公立高校ではもう限界かもしれないというのをその時に感じました。加えてコロナ世代で部活経験が少ない子たちが来て、今までのやり方についてこられない子もいて。自分のスタイルを根本から変えてまでやっても情熱は持てないなと思ったのがその頃でした。

— 新川: 
その後、キャリアについて考え始めたのはどんなことからでしたか?

とし: 
45歳ごろに定年が65歳まで延びるというニュースがもうすでに出ていて、65までこれが続くのかと考えたんです。管理職はやりたいと思えない。平の教員でいるとしたら、部活への情熱があの頃ほどは持てない。学年主任や生徒指導主任はやれと言われればやるけど、自分のやりたいイメージが全然なかった。40代まではまだ生徒との距離が近かったけど、これからどんどん離れていく感覚があって、先が見えなくなりました。

「65歳まで続けていくイメージが、どうしても描けなかった。その時に初めて、次のキャリアを真剣に考え始めました」

SSとの出会い——「自分を知らないといけない」

新川:
SSを知ったのはどんなきっかけでしたか?

とし: 
2年生の担任をしていた11月ごろです。3年前から漠然と考え始めていたんですが、思考がそれ以上進まないんです。ふと考えて、また日常に戻って、また考えての繰り返し。自分でいくら考えても答えが出なくて、次のキャリアに進むには自分のことをちゃんと知らないといけないと思った時にSSを見つけました。

新川: 
入った時点で、やめる気持ちはどれくらいでしたか?

とし: 
5対5か、やめる方向がちょっと強いくらいだったと思います。後押しになるものが欲しかったというのが正直なところで、やめるかどうかの決断よりも、次に進むための土台を作りたかったんです。

価値観と、踏み出せた理由

新川: 
プログラムを通じて、一番大きかった気づきは何ですか?

とし: 
価値観のワークです。正直めんどくさいなと思いながらやったんですが(笑)、あの時に出した5つの価値観は今も自分の中にしっかりあって。行動を決める時に「自分の価値観に合っているか」を考えるようになりました。それが選択の基準になって、判断がずっと楽になりましたね。

— 新川: 
それでも退職という決断には怖さもあったのでは?

とし: 
お金のことはめちゃくちゃ悩みました。でもある時、「教員をやめる=教員より稼げない」と決まっているわけじゃないと思えたんです。教員よりも稼いでやると思えた時が、踏み出せた一番の理由だったと思います。妻も高校の英語教員で、部活でどんなに遅くなっても一度も文句を言われなかった。理解があって自由にさせてもらっていたと思うんですけど、でもなんだかこのまま続けていても僕は楽しくないし、大前提として自分の人生これではダメだと思ったことが最後の後押しでした。

「教員をやめたら稼げなくなると決まっているわけじゃない。教員より稼いでやると思えた時、踏み出せました」

自分の城——学習塾開業と、複業

— 新川: 
これからどんな働き方をしていきますか?

とし: 
テナントをすでに借りていて、今まさに学習塾の準備をしています。昨日も机の搬入をして、何もなかった空間に少しずつ景色が変わってきていて。不安はもちろんあるけど、それ以上にワクワクがあります。今まで教員に注いできた情熱を、塾の生徒たちの成績を上げることや保護者との関係に向けていきたいと思っています。

新川: 
塾以外にも活動を広げていく予定なんですよね。

とし: 
はい。学習塾を軸にしながら、コーチ業やスキーのインストラクター、物販など、いろいろやってみたいことがあります。教員だと副業ができなかったので、何でもできる状態になったということ自体が楽しいですね。何かにはまった時のエネルギーには自信があるので、どこにそのスイッチが入るかというのも楽しみにしています。

「教員だと副業ができなかった。何でもできる状態になったということ自体が、今はものすごく楽しいです」

同世代の先生たちへ

新川: 
40代で「このままでいいのか」と悩んでいる先生たちへ、一言いただけますか?

とし: 
自分で考えるだけだと、思考がそれ以上進まないということを3年間で実感しました。ふと考えて、また日常に戻って、また考えての繰り返し。でも外を探したり動いたりしたことが全ての始まりでした。まず何かを探してみる、動いてみる、そこから始まると思います。

「自分で考えるだけでは、答えは出なかった。探して、動いてみたこと——それが全ての始まりでした」

編集後記

としさんのインタビューを聞いて、「情熱の人」だなと感じた。留学・商社・教員という道の選び方も、22年間ほぼ休みなく部活に注いできた姿勢も、「やると決めたらとことんやる」という性質が一貫している。

全国ベスト8をかけた試合で準優勝した時の話は、特に印象に残った。公立高校ではもう限界かもしれないという気づきと、コロナ世代の子たちとのすれ違い——それは自分では変えられないところでの限界だったのだろう。「自分のスタイルを根本から変えてまでやっても情熱は持てない」という言葉は、正直な自己理解だと思う。

「教員より稼いでやる」という言葉に、としさんらしさが凝縮されていた。不安を不安のまま抱えるのではなく、乗り越えるための目標に変えてしまう。テナントに机が並んでいく景色、これからどこに情熱のスイッチが入るか——楽しみでならない。

取材・文:新川(Re-Career株式会社 代表取締役)